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「イエスと私たちの復活」

マルコ15章40節から16章8節まで

1.マルコによる福音書の終わり方
2.イエスは本当に死からよみがえったのか?
3.イエスの復活は何を意味するのか?
3.1.イエスが神に選ばれた救い主であること
3.2.死はすべての終わりではないこと
3.3.神が世界を裁くために日を決められていること
4.イエスと私たちの復活


また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、

「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」

とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。

「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、

『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』

とそう言いなさい。」

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコによる福音書15章40節から16章8節まで(新改訳聖書)

1.マルコによる福音書の終わり方

今日でマルコによる福音書も43回目、普通、月に一度なので3年と7ヶ月を要しました。

今日は15章40節から16章8節までです。

実は今日で、マルコによる福音書のシリーズも、最後になります。

と言うと、あれ?それはなにかの間違いではありませんか?と思う方もいらっしゃるでしょうか?

マルコによる福音書、いま聞いていただいている16章は何節まであるでしょうか?

実は20節までありますね。

さらによく見てみると20節の次に「別の追加文」などというものがあります。

ですが、僕は今回、このマルコによる福音書の16章の8節までしか見て行きません。

それはどうしてでしょうか?

9節の初めに注釈がありますね。

9節の注釈を見てみるとそこには「異本、9-20節を欠くものがある」と言われています。

これはどういうことでしょうか?

私たちは聖書が誤りのない、神の言葉であると信じていますが、それは神に神の言葉を伝えるようにと選ばれた使徒と呼ばれる人たちや預言者と呼ばれる人たちが記した原本において誤りがないと考えます。

その原本と呼ばれるものはもうどれも現在に伝えられていなくて、代わりにその原本の写本、 いわゆるコピーが多く残されています。

現在残されている新約聖書の写本で一番古いものはヨハネの福音書の一部で、それは紀元 125年ごろと言われています。

もちろん原本の直接の写本なのか、それとも写本の写本で、あったのか、大部分は写本の写本しか残っていないわけで、すが、2000年前はもちろんなにかコピー機のようなものがあって全く同じもののコピーが作られたわけではありません。

ある場合には原本を見ながら写本を作ったで、しようし、ある場合には原本を暗記してそれを写本に書き写したものもあったでしょう。

そこには書き写しのエラーや記情違いのエラー、さらには意図的な改変もなされたようです。

そのようなわけで、現存する写本を比べてみるとそこにはわずかながら違いが見られます。

そのような違いが知られているときには、新改訳聖書の場合には注釈に、この箇所を欠く 異本があるとかこの箇所を含む異本があるとか書かれています。

このマルコによる福音書16章9節から20節はどうでしょうか?

新改訳聖書の注釈には「異本、9-10節を欠くものがあるJと言われているだけですが、も う少し詳しく言うと、マルコによる福音書の古い写本は4種類に分けられるそうです。

1つ目のグループはこの8節で終わるもの。

ニつ目のグループは20節で終わるもの。

三つ目のグループは8節の後!こ「別の追加文Jを加えて終わるもの。

そして4つ目のグループは20節プラス別の追加文で終わるもの、だそうです。

問題は、マルコが書いたオリジナルの原本はどうで、あったのか、ということですが、これは学者の間では、オリジナルは16章8節で、終わったものであったということで大体意見が一致しているそうです。

すなわち9節から20節、また別の追加分はマルコがもともと書いた書には含まれていなかった、ということです。

そう考えられる理由は少なくとも二つあります。

一つめは歴史的な観点からで、オリジナルにより近いと認められる古い写本が8節で終わっていることです。

また、9節から20節を含む古い写本でもすでにこの箇所はオリジナルかどうか疑わしいと注がしてあるそうです。

また2世紀のクリスチャンたちの書いた書物によるとオ一センチィックなマルコの福音書は8節で終わる、と言われているそうです。

そのような歴史的な証拠から、それではマルコの福音書は16章8節で、終わっているのだ、と認められることになります。

もう一つの理由は、この箇所に書いてあるそのものの言葉から、これはマルコが書いたかどうか疑わしいと言われるそうです。

マルコはヘブル人でおそらく母国語はアラム語、ギリシア語はルカの福音書などとくらべると、あまり上手ではないそうです。

このあたりの感覚は僕など日本語の聖書を読んでいるだけでは、とても分からず、ギリシア語を学ばなければなりませんが、この9節から20節のギリシア語はそれまでのマルコの福音書とずいぶんスタイルが変わって、どちらかといえば大変流暢なギリシア語が使われているそうです。

また、ここに書かれていることは他のマタイ、ル力、ヨハネの福音書、また使徒の働きに書かれていることをまとめたようなことが記されています。

そういうことを考えると、どうやら、この箇所はマルコが書いた後になって、クリスチャンが他の福音書などを参考に書き加えたと考えるのが妥当なようです。

そのようなわけで、僕はこの箇所はもともとマルコが書いたものではない、使徒として選ばれたペテロの言葉を記したものではない、だれか、いわば軽率なクリスチャンが、8節で終わるのはなんだか尻切れトンボだから書き加えてしまった、もし後から書き加えられたものなのならば、それは、使徒の言葉ではなく、すなわち、神の言葉でもない、と考えています。

今、私たちはこの日本語の聖書を使っていますが、聖書のある箇所は神の言葉で、ある箇所はそうではない、と決めたりすることはなんだか恐れ多いじゃあ、間違って神の言葉で、ないところを神の言葉と信じたり、間違って神の言葉を、神の言葉で、ないと決めてしまったりしてしまうのではないですか?と心配になる人もいますが、しかし、このような箇所は新約聖書では大変まれです。

普通はもっと細かな違いしかありません。

例えば、開かなくてよろしいのですが、マルコによる福音書1章 1節は「神の子イエス・キリストの福音のはじめJと言われています。

ですが、注釈を見てみると、異本「神の子」を欠くと言われています。

そしてより信頼できる古い写本には確かに「神の子」とは言われておらず、単に「イエス・キリストの福音のはじめ」と言われています。

ですからこれはおそらく後世のクリスチャンが書き加えてしまったことで、はないだろうかと懇像しますが、ここに「神の子」とあるかないか、それはたいした問題でしょうか?

旧約聖書を理解していれば「キリスト」とはすなわち神に選ばれた王、神の子で、あって、ここ にさらに「神の子」と害かれているかいないかはたいした問題ではないですね。

新約聖書に現れている写本の違いはその程度のもので、あって、イエスに対する信仰、神に対する理解をなにか覆してしまうようなものではまったくありません。

いろいろな古い写本がさらに19世紀、20世紀になって発見されましたが、そのどれも、2000年間伝えられてきた聖書、また信じられてきた教えを覆してしまうようなものはありません。

それでは、マルコが書いた福音書は確かに8節で終わっているとするとして、しかし、この終わり方はなにかあまりにも急ではないでしょうか?

「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

そんな状態で終わる人がどこにいますか?と言われそうですね。

マルコがこの後の箇所を書いたのか書かなかったのかは学者は大体ニつに分かれてしまうそうで、それはなかなかどちらであるとは言いがたいそうです。

みなさんはどちらだと思われるでしょうか?

もしマルコが実は9節以降を書いていたのなら、おそらくは残念ながら書いてすぐ何らかの理由で失われてしまったのでしょう。

もし、書かなかったとしたらそれはどうしてでしょうか?

マルコの福音書がもし、まだ使徒たちが生きているときに書かれたとしたら、この箇所まで読まれてから、イエスの復活を実際に目撃した使徒たちが自分で話すほうが、当時は書物よりも人々に訴えかけたからかも知れません。

これは天国で、マルコに聞いてみたいことでもあります。

そのようなわけで、私たちはマルコによる福音書の16章8節までで終わりたいと思うのですが、それでは、今日の箇所をもう一度、15章40節から読んでいきましょう。

40節、「また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコフとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにもイエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」

マグダラのマリヤはダピンチコードでずいぶん有名になりましたが、ルカによる福音書ではマグダラのマリヤはイエスによって7つの悪霊を追い出してもらったそうです。

このマリヤはマルタの姉妹のマリヤと混乱されることもありますが、おそらくは別人で、マグダラのマリヤは今日の箇所にありますが、復活されたイエスを最初に目撃した証人としてク リスチャンたちに知られました。

ここにはさらに小ヤコブとヨセの母マリヤとまたサロメと呼ばれる人もいますが、これらの人がいったい誰で、あったのか、はっきりしたことはなかなか分かっていません。

サロメはおそらくヘブル語ではシャローム、ヨセフスの書によればヘロデとヘロデヤの娘の名もサロメですが、これはおそらくは別の人でしょう。

ここにはマグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、そしてサロメの3人の名前が載せられていますが、このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた、といわれているように、ヨハネの福音書ではこの他に、イエスの母マリヤ、その姉妹、クロパの妻マリヤがイエスが十字架にかけられたとき、そばにいたことが言われています。

42節、「すっかり夕方になった。その日は備えの目、すなわち安息日の前日で、あったので、 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願っ た。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」

「アリマタヤのヨセフ」はここに始めて登場したのですが、彼は社会的に地位のある人でした。

ヨハネの福音書によれば、彼もイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していたそうです。

ユダヤ人は安息日に死体を十字架の上に残しておくことを嫌っていたので、ユダヤ人の社会的な良心としてヨセフがイエスの死体の下げ渡しを願うことは妥当なことだったでしょう。

44節「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。」

普通、十字架にかけられた人は数日聞かけて死ぬそうです。

しかしイエスの場合にはひどく鞭打たれ、その日のうちに死にました。

イエスが確かに死んだことは、ヨハネの福音書によれば、兵士がわき腹を槍で突き刺したことで確認されました。

46節「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその車麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」

今なら埋葬は棺おけの中に入れて土に埋める形ですが、当時は地面の下ではなく岩の横を掘って墓としたそうです。

16章1節「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」

ユダヤ人の一日は夕方から始まるので、安息日が終わるのは土曜日の夕方、その後香料を買って、日曜日の朝にイエスの墓に行ったのでしよう。

3節「彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで、話し合っていた。」

彼女たちは墓の入り口に石が転がされたのを見ていたので、それを自分たちでは動かせない大きさだと知っていました。

4節「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしであった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。」

この青年は他の福音書では天使と呼ばれています。

6節「青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人 イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧 なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエ スは、あなたがたより先にガリラヤヘ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いでき ます。』とそう言いなさい。」

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がっ て、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

金曜日の夕方、墓に葬られたイエスはよみがえり、女性たちが日曜日の朝に墓に来たときには既に、墓の中からいなくなっていました。 他の福音書によれば、この後、女性たちは弟子たちにイエスがいなくなっていることを告げ、その後、弟子たち自身の前にイエスが現れたことが伝えられています。

2.イエスは本当に死からよみがえったのか?

アウトラインの2番ですが、イエスは本当に死からよみがえったのでしょうか?

一度死んだ人が、また生き返るはずなどない、と考える人は、イエスが死からよみがえったと言われるのも、実はそうではなく、何かの説明ができるはずだと考えます。

いろいろな人がいろいろな理由を考えてきました。

イエスは実は本当に死んだのではなく、仮死状態であって、墓に入れられてしばらくして患を吹き返し、自分で出てきた、と言う人もいます。

問題はもちろん、鞭打たれ瀕死の状態の上に、わき腹を刺され、なおかつ息を吹き返して、石を取り除けるようなことができたのか、ということですね。

また息を吹き返して、弟子たちと会ったとき、確かに釘や槍で刺された傷の跡はありましたが、けが人らしい様子はなかったことです。

また、この女性たちがイエスの墓ではなく、間違った墓に行って、墓が空で、あったと勘違いした、と説明されることもあります。

イエスの墓が空になっていた、というのは敵対していたユダヤ人たちも認める事実でした。

もし女性たちが本当に間違った墓に行ったのなら、「イエスは復活した」というニュースが広まることを嫌ったユダヤ人たちは、本当のイエスの墓に行って、イエスの死体を見届ければ、「イエスは復活した」という話が嘘である証拠となったでしょう。

ところが彼らはイエスの墓が空になっていたことは認めて、マタイの福音書によれば、イエスの弟子たちがイエスの死体を盗んだのだ、という話を彼らは広めようとしたそうです。

僕にとって、イエスが本当に死からよみがえったのだ、と確信をもてることは、イエスの弟子たちが、復活したイエスに会って、どのように行動したのか、ということです。

イエスが十字架につけられたとき、弟子たちはみな、逃げてしまいました。

イエスが墓に葬られた後も、ユダヤ人を恐れ、家の中に閉じこまっていました。

この弟子たちが、40日の後、今度はエルサレムにて、ユダヤ人を恐れることなく、「イエス は復活した」と大胆に語るようになります。

なぜでしょうか?

復活したイエスに会ったから、としかいいようがありません。

復活したイエスに会い、イエスが復活されたことに確信を持ったからでしょう。

霊的にはその後、聖霊を受け、一度はイエスを見捨てた弟子たちは、今度は神のメッセン ジャーとして、死さえもおそれず、大胆に語るようになりました。

3.イエスの復活は何を意味するのか?

自分は十字架で死ぬ、ということをイエスは弟子たちに予め言ってきましたが、同時に、彼は三日の後によみがえらなければならない、とも預言してました。

イエスが十字架の上で死んだのは私たちの罪を償うためですが、そのイエスが死から復活したのはなぜでしょうか?

アウトラインの3番ですが、イエスが復活したことはいったいどんな意味があるのでしょうか?

僕はここに三つ、その理由を挙げました。

3. 1.イエスが神に選ばれた救い主であること〈使徒2:22-32、210頁〉

一つ目はイエスが復活したことは、イエスが神に選ばれた救い主であることを示していると考えます。

使徒の働き、2章22節を聞いてください。新改訳聖書、後ろの方の210ページになります。

ここはペテロがイエスが復活した後、エルサレムにて人々に語ったメッセージです。

なぜイエスが復活したのかを考えながら読んで見ましよう。

22節、「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知と!こよって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダピデはこの方について、こう言っています。 −これは詩篇16篇の引用ですが−

『私はいつも、自分の回の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、

『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』

と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。j

ダビデは昔、「あなたは私のたましいをハデス−ハデスとは死者がいる場所のことを指すそうで、旧約聖書では「よみ」と訳されていますが、このハデス−に捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない」と言いましたが、しかし、ダビデは死んで葬られました。

それではいったい、ダビデが「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならなしリと言ったのは、ダビデの勘違いだったのか、というとそうではありません。

ダビデは神に選ばれた王、キリストでしたが、また彼は預言者で、もあって、神が後にこの世界に送られる本当のキリストーすなわちイエスに起こることを預言して一イエスのことを言ったのだ、とペテロは説明しています。

すなわち、イエスが死から復活したことは、彼がダビデの語った本当のキリスト、神の王、世界の救い主であることを示しています。

3. 2.死はすべての終わりではないこと

アウトラインの3.2ですが、イエスが復活したことは、また、私たちにとって死は終わりで、はないことを示しています。

第一コリント人への手紙15章 12節を聞いてください。新改訳聖書、後ろの方の311ページになります。

これはパウロがクリスチャンたちに言ったことですが、

12節「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣ベ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしよう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしよう。そして、もしキリス トがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました 。」

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

イエスが復活した、ということは、ただ単に彼が神に選ばれた王、キリストで、特別なので復活した、ということだけでなく、私たちもいずれ復活するということの証拠です。

イエスの復活を見ると、私たちは死というものがそれで終わりではないことを知ることができます。

3. 3.神が世界を裁くために日を決められていること

アウトラインの3.3です。 イエスが復活したことは、また、神が世界を裁くために日を決められていることを示しています。 使徒の働き17章16節を開いてください。新改訳聖書、後ろの方の241ページです。

16節、「さて、アテネで、ふたりを待っていたパウロは、町が偶像で、いっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。 」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣ベ伝えたからである。そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。 」アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。そこで、パウロは、アレオパゴ、スの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、 人間の技術や工夫で、造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てにな ったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。 」

「神は、お立てになったひとりの人一イエスーにより義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。 」

パウロはイエスが復活したことは、神がこの世界を裁くために日を決めておられることの証拠だ、と言いました。

これはどういうことでしょうか? 長くなるので興味のある方は交わり会のときにでも掘り下げていただきたいのですが、旧約聖書にはやがて神の審判の日にすべての人がよみがえって、ある人は永遠のいのちを得て永遠に神とともに、ある人は永遠のさばきを受け、永遠に神とはなれることが言われています。

イエスがよみがえったことは、この裁きの日がいずれ来ることを示しています。 私たちは時に、この世界に起こることを見て、また、自分の周りに起こることを見て、悲しくなることはないでしょうか?

なんでこんなひどいことが起こるのか、神はいったいなにをされているのか?と思ったことはないでしょうか?

神はすでに日を決めて、いずれすべて、義と認められる人には永遠のいのちを、また義と認められない人には永遠の罰を与えることが言われています。

4. イエスと私たちの復活

まとめましょう。

問題は、神はいったいなにをされているのだろうか、ということではありません。

神はすでにこの世界をイエスによって裁かれる日を定め、イエスをよみがえらせました。

問題は、果たして、私はそのとき、義と認められるのだろうか、ということです。

ある犯罪を犯した人が、裁判のとき、「自分は罪悪惑を感じないので有罪ではない」と言ったそうです。

神の前に、自分がどう思うのか、実は問題ではありません。

神が果たしてあなたのことをどう思うのかが問題です。

あなたは神と良い関係を持っているでしょうか?

もし自分は、神に認められない、神と関係なく、神に感謝もせず、自分勝手に生きてきた、と思われるのなら、どうか今、悔い改めてください。

もし神に赦しを願うのなら、神はあなたを罰する代わりに、イエスを罰して、あなたの罪を赦 してくださいます。

イエスが死からよみがえられたことは、彼が本当に神に選ばれた、私たちの救い主である こと、私たちにとって死はすべての終わりではないこと、また、神は正しく、世界を裁くために日を決められていることの希望を私たちに示しています。

祈りましょう。

今回、イエスに頼って、イエスが自分の罪をおって、十字架に死んだことを信じるのなら、一緒に次のように祈ってください。

神様

わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。

わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。

どうか赦してください。

ですがあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦して くださったことをありがとうございます。

わたしに希望が与えられるように、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。

どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わた しを変えてください。

イエスの名によって祈ります。

アーメン


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Produced by Hajime Suzuki
Special thanks to my wife Louise for her constant encouragement and patience