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ローマ人への手紙13章8節から14節まで
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」
という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
ローマ人への手紙13章8節から14節まで(新改訳聖書)
みなさん、こんにちは。 鈴木肇です。 普段は朝9時からこの場所で行われている英語の礼拝に家族で参加しています。
妻は中国人で、もともとは上海の出身、日本語は話せず、子供たち3人にも日本語は教えていないので、家は英語が共通語です。
今日は日本に行っているグラハム先生の代わりにメッセージをする役を受け持ちました。
でも僕はいわゆる牧師でも宣教師でもありません。 普通のクリスチャンです。 普段はCSIROという、オーストラリア政府の研究機関で働いています。
趣味といえばとくになにもなく、妻と映画を見て批評しあうことぐらいなのですが、「Amazing Grace」という2006年の映画があるのですが、観たことのある人はいますか?
主演のヨアン・グリフィスは映画「ファンタスティック・フォー」の主人公としてのほうが知られていると思いますが、「Amazing Grace」は実在する18世紀のイギリスのクリスチャンで政治家の William Wilberforce の生涯を描いた作品です。
「18世紀の終わりには千百万人以上のアフリカ人が奴隷としてアフリカから連れ去られた」という言葉でこの映画は始まります。
William Wilberforce は28年かけて、奴隷貿易によって益を得るイギリスの政治家を相手に、奴隷貿易を廃止する法案が採択されるための運動を続けました。
また観たことのない人は、是非観る事をお勧めします。英語版ですが、ここにもコピーが一つありますのでお貸しできます。
この映画を観終わった僕の感想は、William Wilberforce は生きがいのある人生を送ったなぁ、というものでした。
「生きがい」という言葉は英語に直しにくいのですが、英和辞典には「something to live for」とありました。とりあえず、Ikigai としておきますが、みなさんには「生きがい」があるでしょうか?
日本のある研究所が「サラリーマンの生活と生きがい」というアンケートを5年に一度実施しているそうです。
ここでサラリーマンとは企業で働いたことのある男性、もしくは女性を指すそうで、─僕もサラリーマンなのですが─それでは自営業の人の生きがいはどうでもいいのか、とかそういうことはないと思うのですが、なぜかこの調査ではサラリーマンだけが対象になっています。
前回の調査では日本全国から5000人以上の回答が得られているそうですが、その結果に基づくと、まず、生きがい、とはいったい何を指すのか。
生きがいを他の言葉で言い表すとしたら、みなさんならどんな言葉を使うでしょうか? 生きがい。 考えてみてください、どんな言葉を使うでしょうか?
僕なら「生きる目的」が「生きがい」と最初に思いましたが、広辞苑によれば、「生きがい」とは「生きていてよかったと思えるようなこと」とあります。
つまり「生きがい」という言葉には「なぜ生きるのかその目的を自分で定める意思」という面と「生きた結果として得られる感動」と二つの面があるように思います。
このアンケートも、まず、生きがいとはいったいなんであるのか?その意味を問います。
「次の中で「生きがい」を表すのに最も適当なのはどれだと思いますか。あなたのお考えに最も近いものから二つまで選んでください。」
という問いには
「生きる喜びや満足感」(46.7%)
「生活の活力やはりあい」(30.1%)
「心の安らぎや気晴らし」(29.5%)
「生きる目標や目的」(19.9%)
「生きる喜びや満足感(46.7%)」「生活の活力(すなわち活動のもとになる力)やはりあい(かいがあると感ずる気持ち)(30.1%)」「心の安らぎや気晴らし(29.5%)」といった自分の感動が「生きがい」だという答えがまず並びます。
自分の感動ではなく、生きがいとは自分の「生きる目的」だと答えた人は(19.9%)、5人に一人、多くの人は「生きがい」を自分が受ける感動だと受け取っています。
それでは
「あなたはあなたの生活に生きがいを得ていますか?」
という問いについて、いったいどれだけの人が、
「そのような生きがいを得ている」
と答えたでしょうか? みなさんなら、どう答えますか?あなたはあなたの生活に生きがいを得ていますか?
持っている(48.0%)
わからない(22.9%)
持っていない(19.5%)
前は持っていたが、今は持っていない(9.6%)
「持っている」が48%、「分からない」が22.9%、「持っていない」が19.5%、「前は持っていたが、今は持っていない」が9.6%となってます。
これは僕の年代の結果で、もっと高齢の人たちの生きがいの保持率は実は上がるのですが、生きがいがありますか、と訊かれて、もっていない、分からない、が僕の年代では半数を占めるというのは驚きでしたが、いかがでしょうか?
今日のメッセージを準備するにあたって、僕は二つのことを目標にしました。
一つはみなさんに、聖書の教える神をより知っていただくこと。
もう一つは、この神のために生きることをみなさんの生きがいとすることをお勧めすることです。
どうしたら、神を知ることができるでしょうか?
それは神の言葉である聖書に耳を傾けることです。
聖書はもともとヘブル語またはギリシア語で書かれていて、僕たちはとりあえず、日本語なり、英語なりに訳されたものを読みます。
書いてあることの意味が通じるなら、別に古くなくても、またどんな言葉に訳されていても良いわけです。
なぜこの聖書が神の言葉なのでしょうか?
例えば今日、読んでいただいたローマ人への手紙、これはイエスの弟子、パウロが、イエスが死んで後、25年ほど経ってからローマに住むクリスチャンたちに書いた手紙です。
なぜパウロがクリスチャンたちに書いた手紙が神の言葉なのでしょうか?
その出発点はイエスです。
クリスチャンはイエスが人となった神ご自身であることを認めます。
なぜイエスが人となった神なのか、それちょっとよく分からない、という方は、是非あとでお茶の時間にでも聞いてみてください。
ですが、もしイエスが人となった神であることを認めるなら、イエスの言葉、イエスの教えは、そのまま神の言葉、神の教えですね。
でもイエスは自分自身ではなにも書き記さず、イエスは自分の弟子たちを選んで─クリスチャンはその弟子たちを使徒と呼びますが、その使徒に─イエスはイエスの言葉、イエスの教えを伝えることを任命しました。
パウロはイエスの使徒として任命されたので、パウロの教えは、イエスの教えであり、それは神の教えです。
そのようなわけで聖書は、そして今日の聖書箇所は神の教えだと踏まえて、神は使徒パウロを通して私たちに何を教えるでしょうか?
今日の箇所、8節を見てください。まず初めに
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」
と言われています。
「誰に対しても、何の借りもあってはいけません」大変強い言葉ですが、これはなにを教えているでしょうか?
もしこの節だけ読んで、神の教えを理解しようとしたなら、例えば借金はどんなものもしてはならない、と理解されるでしょう。
僕なども家を購入するのにローンを組むわけですが、それはクリスチャンとしては実はいけないことなのでしょうか?
例えばレストランにいって、普通食事をしてからお金を払うわけですが、「誰に対しても、何の借りもあってはいけません、すいません、クリスチャンなんですけど、前払いでお願いします」と言わなければならないのでしょうか?
聖書を理解しようとするとき、一部だけを読んで理解しようとしてはいけません。文脈を読み、また聖書全体のメッセージと合わせて理解しなければ、著者の意図とまったくかけ離れた大変な勘違いをする危険性があります。
ある人たちは聖書は神のメッセージなのだから、神の霊が働いているのだから読んで勘違いなんてするわけないじゃないですか、自分が感じたことが神のメッセージなのです、というようですが、イエスのべつの使徒ペテロはそうは言いません。
第二ペテロの手紙3章15節にはこう書かれています。
「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。(中略)その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
ここで言われていることはまず、パウロは神に与えられた知恵に従って書いている、という事、ペテロはパウロの書いた手紙を、聖書─ペテロにとっての聖書は旧約聖書を指しますが、その聖書─と同様に曲解するならば自分自身に滅びを招くと言っている事、そして、その手紙の中には理解しにくいところもある、と言っている事です。
自分で感じるように理解して良いのであるなら、理解しにくい、なんてことはないですね、神の言葉であっても、理解しにくいことがある、正しく理解するために努力が必要なのです。
正しく理解するためには自分が理解したいように、ではなく、著者がなにを伝えているのかを正しく理解しようとしなければなりません。
ローマ人への手紙13章8節に戻りますが、「だれに対しても何の借りもあってはいけません」これはクリスチャンはなんの借りもあってはいけない、例えば借金をしてはいけない、と言っているのでしょうか?
イエスはこんなたとえ話をしました。ルカによる福音書19章
「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。
『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」
この十ミナはただでもらったものではなく、いわば借金で、しもべたちは主人に後でこのお金を返すのですが、もしお金を借りること自体がいけないことであるならば、このたとえの結末は、帰ってきた主人がしもべに
「なぜ私から金を借りたのか!」
となるべきですが、そうではありません。
このたとえの結末に興味のある方は後でルカによる福音書19章を読んでいただくとして、ローマ人への手紙でパウロが言いたいことは、「だれに対しても何の借りも全くあってはいけません」ということでは実はないようですね。
おそらくは、借りを返すべきなのに返さないままであってはいけません、英語で言えば “Let no debt remain outstanding” この教会でも使っている英語のNew International Version では実にそのように訳されています。
しかし、パウロが本当に伝えたいことは、そこではなく、その次の
「ただし、互いに愛し合うことについては別です」
と言う事だと考えます。 意訳すれば、
「愛し合いなさい、私たちはそれ以外の義務を負っていません、なぜなら、他の人を愛する者は、律法を完全に守っているからです」
となるでしょうか。
さっき僕はペテロの手紙を引用して、聖書を曲解してはいけない、と言いました。この意訳が曲解でないことを祈りますが、次に進むとしてそれでは「律法」とは何でしょうか?
律法とはある時において、旧約聖書の最初の5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5書のことを指しますが、そこに記されている、神の教え、人が神に受け入れられるために守るべき神の教えのことを指します。
イエスが来られるまで、人は神の教えを守り行うことで神に受け入れられる、と教えられていました。
ですが、実は、神の教えを守ることでは誰も神に受け入れられることはできません。
なぜですか?
聖書によれば、神の教えを守れる人は実は一人もいないからです。
ローマ人への手紙3章20節
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義とは認められないからです。」
と言われています。
ちょっと待ってください。なぜ神は誰も守りきることができないような教えを人に与えて、教えを守ることで神に受け入れられると教えたのですか?と言う人はいないでしょうか?
つづく23節にはこう書かれています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる購いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」
僕が神の教えを守れなかったその罰は、僕ではなく、人となった神であるイエスがその罰を十字架に架かって神に見捨てられ死ぬことで負ったので、僕は無償で、ただで、なんの犠牲もなしに、神に受け入れられます。
実に人には神に頼る以外に、神に受け入れられる方法がない、人は神に頼る以外、生きる道はない、ということを人に教えるために、神はこのようにされました。
人はイエスに信頼するだけで、それだけで、神に受け入れられる、と聖書は教えます。
それでは、イエスに信頼し、神に受け入れられたクリスチャンは、もう神の教えを守らなくて良いのでしょうか?
たとえ神の教えを守れなくてもイエスを信じれば神に受け入れられるのだから、じゃあ、律法は守らなくてもいい、そう考えてしまう人もいるのではないでしょうか。
それは正しいことでしょうか?
聖書はそうではない、と教えます。
ローマ人への手紙6章15節
「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
神に受け入れられたのだから、そのような人にふさわしく、神の教えに従って生きるようにと聖書は教えます。
クリスチャンは神に受け入れられるために神の教えを守るのではなく、罪びとでありながらすでに神に受け入れられたので神の教えを守ろうとします。
クリスチャンになって私は神の教えを守っています、と言う事はいつまでたっても、できないでしょう。
だからといって、守ろうとすることをあきらめることはできません。このことについてはまた後でもう一度お話します。
ここで言われている神の教えは何でしょうか? 9節
「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。」」
神の教えは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。
隣人ということは、自分の家族は含まれないのですか?隣に住んでいませんし。 いいえ、自分の家族も含まれます。
ある人がイエスに尋ねました。ルカによる福音書10章ですが「では私の隣人とは、だれのことですか?」
イエスの答えは、全く知らない行きずりの人でも自分と関わりをもったのなら、それがあなたの隣人です。
自分の家族、兄弟・姉妹、親戚、学校の友達、職場の友達、近所の友達、あ、今、自分の車を乱暴に追い抜いていった、あの車の憎たらしい運転手さえ、自分の隣人です。 その隣人を自分自身のように愛するように、と言われています。
そうするとどうなるでしょうか?
例えば自分の隣人が、自分の持っていない、自分の欲しいと思っていたものを持っていたとしましょう。
思い浮かべてください、あなたの隣人が、あなたの持っていない、あなたの欲しいと思っているものを持っていたとしましょう。
普通ならうらやましい、もしくはねたましい、もしかしたら憎たらしいとまで思うかもしれません。
でも、もし、その隣人を自分自身のように愛するなら、自分で自分をねたむでしょうか?
いいえ、その隣人を自分自身のように愛するなら、その隣人が持っていることを自分自身と同じように喜ぶのではないでしょうか?
例えば、自分がなにか困難に直面したとしましょう。ああ、僕は今、この問題で悩んでいます、苦しんでいます。
そのとき、もし周りの人たちが、僕のこの問題をあたかも自分の問題であるかのように一緒になって悩んでくれたり、解決策を考えてくれたりしたらどうでしょうか?
僕などは自分の子どもが「パパ、大丈夫?」と気遣ってくれると、それだけで「生きてて良かった」と思うんですね。
これを日本語で親ばかと言いますが、もし全くの他人があたかも自分自身のように本気で自分を気遣ってくれたらどうでしょうか?
「よけいなお世話?」いえ、もし、本気で気遣ってくれるなら、心から「うれしい、ありがたい」と思うのではないでしょうか?
そんな風に親身になってくれる家族や友人がいることは大変幸いだと思いますが、聖書の神は、たとえ行きずりの人でさえ、そのように他人を自分自身のように愛するようにと教えています。
神の教えは時に、自分のやりたいことができず、窮屈だ、と思われる場合がある。ですが、もし、多くの人が本気で神の教えを守ろうとしたのなら、そのような社会は、今よりずっと幸せな社会なのではないかと僕は想像します。
10節
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
神の教えを守るなら、隣人に対して害を与えません。そのためには自分自身が変えられ隣人を憎まない、ねたまないようになることが必要ですし、隣人を自分自身のように気遣うことができるようになることが必要です。
もしこのことができるなら、聖書の神の教えは、実に、僕たち自身の平和のための、僕たち自身の益になる教えです。
11節
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」
パウロの言う、眠りの状態とはどんな状態でしょうか? ここでは詳しく語られていませんが、もし、神に受け入れられたのに、何もせず、いまだに神に受け入れられる前の昔のままの生き方をしていたのだとしたら、それは眠っている状態だと考えます。
何もしないで眠り続けるのではなく、まだ眠っているのであるなら今が起きるときです。
「救いが私たちにもっと近づいている」
とはどういうことでしょうか? 聖書は、イエスがまた再びこの世界に来られると教えています。
その日には、この世界のすべての悪は取り除かれ、もしあなたがそう望むのなら、イエスに信頼する人は、すべて罪の性質を取り除かれ、罪のない世界で神とともに生きるようになると教えています。
それが救いの日です。
その日がいつであるのか、聖書は教えていません。
初期のクリスチャンたちは、その日がすぐ来ると考えて、仕事をやめたり、家を売ったりして、ただイエスを待ち望む日を過ごしていました。
そのうち、それが、何年、何十年となって、パウロがクリスチャンたちに手紙を書くころには、パウロの教えは、第一テサロニケ人への手紙4章11節ですが
「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」
でした。 それからすでに二千年経ちました。二千年です。イエスが再び来られることはもうないのでしょうか?
使徒ペテロは言いました。第二ペテロの手紙3章8節
「しかし、愛する人たち、あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
イエスがまだ来ないのは一人でも多くの人が神を信じるようになるように神が待っているから、と言われています。
ですが、その日は確実に、来ます。一日また一日、過ごすことは、一日また一日、その日へ近づくことです。この意味でパウロは「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」と言っているのだと考えます。
12節
「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」
「光の武具を着けようではありませんか」 以前の生き方を改めて、神に受け入れられた者にふさわしく生きようとすることは、実は簡単なことではないと考えます。
僕自身の経験からも、自分の罪の性質に従わず、神の教えに従って生きようとすることは簡単なことではなく、それはまさに「戦い」という言葉で表現できると思います。 ですからパウロも、「武具」と戦いに用いる防具と武器のことを言っています。
この「光の武具」がいったい何のことであるのか、この箇所では詳しく説明されていませんが、エペソ人への手紙6章にはこう書かれています。
「腰には真理の帯を締め胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。」
すなわち何が真理で、何が正義で、何が福音なのかをはっきりと知って自分の物とすること。
「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」
信仰とは神により頼むこと、神により頼むならたとえ悪魔が「あなたは神に受け入れられない」と偽りを述べてもみな打ち消すことができます。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばをうけとりなさい」
救いの日の希望を持つこと、また神のことば、すなわち聖書のことばを自分のものとすること。これらが光の武具を身に着けることであると考えます。
13節
「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」
遊んで自分の仕事をしないこと、酒に酔って自制を失うこと、性的な欲にとらわれ、結婚の相手以外の相手を欲すること、人と争うこと、ねたむこと。 パウロがこの手紙を書いた二千年前、ローマに住む人たちはこのような生活をしていました。
二千年経って少しは人は進歩したでしょうか?
飛行機で世界中いろいろな場所へ行けるようになって、インターネットで地球の反対側の人とも一瞬でコミュニケーションがとれるようになっても、僕たちの罪の性質は二千年前とまったく同じではないでしょうか。
この罪の性質に従わず、神の教えに従うにはどうすれば良いのでしょうか?
14節
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」
イエス・キリストを着る、とはどういうことでしょうか? それはイエスの思いと一体になりなさい、イエスの態度を身につけなさい、イエスのように変えられなさい、ということだと考えます。
イエスは確かに隣人を自分自身のように愛しました。 助けを求める人誰にでも救いの手をのべ、自分が迫害され、殺されるときでさえ、殺そうとする民衆が神に赦されるようにと祈りました。
そのイエスに近いものへと変えられる、そうすれば古い生き方を改めることができると期待します。
まとめましょう。
僕は21歳のときに、イエスを信じました。 神の愛を知る前には、ねたんでいたり、憎んでいたり、高慢に思っていたりしたことが、神の愛を知った後、完全になくなった、と言いたいところですが、少なくとも、自分で意識できるくらいには減った、と言えます。
これは自慢ではなく、実に神がそのように変えてくださった、と言いたいです。
それでは、ねたみや憎しみや高慢が少なくなって、僕には闇の部分がなくなったのか、というと残念ながらそんなことはありません。
二十年前からもしかしたら全く変えられていないのではなかろうか、と思えるような、みだらな心、むさぼる心、さげすむ心、そのほかいろいろな肉の思いが起こります。
さらに、言えば、もし僕が僕の罪をより外に現さなかったのだとしたら、それは単に機会がなかっただけかもしれません。
もし多くの人がねたみを持つような、憎しみを持つような、みだらな思いだけでなく、行動をしてしまう、そんな状況におかれたら、僕には本当に、神に変えられ、神の愛を知るものとしてふさわしく、思い、行動できるのか、そんな自信はまったくありません。
クリスチャンになる前の自分とクリスチャンになった後の自分、またクリスチャンになってから二十年たった自分、もし変化も進歩もないとしたら、どうなるでしょうか?
ある場合には「もう、あきらめよう」「変えようと思ったって無駄」「同じことの繰り返し」という思いが起こるのではないかと考えます。
この時、あきらめないのがクリスチャンです。
この世界に生きることは実に楽ではないと僕は考えます。
食べるものにも着るものにも困らず、夜心地よく寝るベッドもあって、なお、この世界に生きるのは楽ではない、なんて、僕は本当の苦しみということを全く知らないのでしょう。
それでも、この世界に起こる悲しい出来事、悲惨な出来事を知ることで心を痛める。身近な人々に起こる困難を知って心を痛める。自分自身の罪の性質を見て心を痛める。
ある人はなぜ、神が存在するのなら、この世界にこんなにも多くの苦しみがあるのか、というでしょう。
しかし、この世界の多くの苦しみは、私たち人の罪の結果ではないでしょうか?
もし多くの人が、神の教えを守り、隣人を自分自身のように愛したのなら、この世界はもっと生きがいのある、幸せに満ちた、世界となったのではないでしょうか?
僕自身、神に従うという選択肢と、自分の罪の性質に従うという選択肢があったとき、神の教えが本当に自分にとって良いもの、自分にとって正しいものであることを理解しているのに、神の教えに従えず、自分の罪の性質に従ってしまう。
実にこの世界のすべての苦しみは、人が直接引き起こしていることだけでなく、事故や病気や天災も含めて、すべては人が神に従わず、自分勝手に生きたことへの神の罰であると聖書は教えます。
なぜ神はそのようにされたのでしょうか?
それは私たちが神の愛を知ることができるためです。
僕は神に罰せられるべきでした。
それなのに、神は僕を見捨てず、僕の代わりにイエスを罰して、僕を受け入れてくださる。
だからこそ、神の愛を知ることができます。
だからこそ、再びイエスが来られる日を待ち望むことができます。
初めに「Amazing Grace」という映画の話をしました。
この映画の中で、とても印象に残っている一つの場面があります。 それは William Wilberforce が庭で祈る場面です。
彼は
「神様、とてもおかしな話ですが、あなたと二人きりで会いたいと感じています」
と祈り、彼の表情はなにか幸せに満ちています。
この場面は僕に、ああ、彼は神の愛を自分の経験として知っていて、彼は神を生きがいにしているのだなと、思わせました。
彼はこの思いを胸に、何百万人もの奴隷を解放するような、実に大きなことを成し遂げましたが、その原点は神を愛すること、そして隣人を自分自身のように愛することなのだと考えます。
日々、神の愛を知り、神のために生きることがあなたの生きがいとなりますように。
もし、このように願われる方は、僕と一緒に、次のように祈ってください。
神様。
私はあなたを無視して、あなたの教えに逆らって生きてきました。
私にはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
私が受けるべき罰を、私の代わりにイエスがすでに受けたことをありがとうございます。
どうかあなたを生きがいとして生きることができるように私を変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン。
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