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ルカによる福音書2章8節から12節まで
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
ルカによる福音書2章8節から12節まで(新改訳聖書)
オーストラリア博物館で今、アレキサンダー大王の展示会が開催されているそうです。
アレキサンダー大王、というと、紀元前4世紀に20歳でマケドニアの王となり、30歳でその時代の最大の王国を築いた人物です。
物知りそうなことを言っていますが、僕の世界史の点数は平均点以下だったので、僕がアレキサンダー大王のなにものかを知っているわけではまったくないのですが、この展示会の目玉の一つである Gonzaga cameo というものの写真を見て、僕はショックを受けました。
これは紀元前3世紀ごろに作成されたものだと言われていますが、これが2000年以上も前のものであることを皆さんは信じられるでしょうか?
僕は一目見たときは信じられませんでした。
2000年の時を越えて、そのころの職人の技術に驚き、またこれが2000年間、いろいろな人の手を経て、今、シドニーで展示されているということも、なんとも不思議な思いがします。
このカメオを見て、いや、こんなのは作り物だよ、2000年も前のものだなんてありえないよ、と言う人は少ないでしょう。
いや、むしろ、2000年間変わらず、人々を魅了し続けていることに感嘆するのではないでしょうか。
今日の聖書箇所、この物語も2000年の時を超えて、もともとはアレキサンダー大王も用いた原語のギリシア語から、僕たちは今、日本語、または英語に訳されたものを読んでいます。
この福音書の著者であるルカは医者で使徒パウロの弟子、もしくは友人とも言われています。
パウロによって「愛する医者ルカ」と呼ばれています。
ルカの記したこの箇所も二千年間変わらず、人々を感動させるメッセージを伝えてきているわけですが、この箇所を、8節からもう一度読んでみましょう。
8節「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」
この夜はなにも特別な夜ではなく、イエスの生まれたベツレヘムの町の外、この土地に、羊飼いたちが野宿をするのも夜番をするのもなにも特別なことではありませんでした。
夜に羊が狼などに襲われないように、少なくとも一人が起きて寝ずの番をしていました。
そのなんでもない日常のある日に 9節「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」
ここでいくつか疑問に思ったことはないでしょうか?
まず、そもそもなぜ、その場に居たはずのないルカがこのことを知っているのでしょうか?
べつに不思議には思わない、という方はいますか?手を上げていただけますか?
確かに、聖書を読めば、実はなにも不思議はないと思います。
この出来事の後、羊飼いたちはマリアとヨセフに会い、羊飼いたちは自分たちの見聞きした出来事をマリアに伝えます。
19節には、マリアは「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」とあります。
イエスの母マリア、彼女はイエスが宣教を始めたすぐのころは、イエスの兄弟たちとともに、イエスが狂ったのではないかとイエスを家に連れ戻しにきた、こともありました。
しかし、イエスが十字架で死ぬときにはその場にいて、またイエスの死後はイエスの弟子たちと行動をともにしていたようです。
ですからイエスの生涯について(1章3節)「初めから綿密に調べている」と言ったルカが、マリア自身、もしくはマリアから話を聞いたイエスの弟子から、羊飼いがマリアに伝えたことを書き留めたとしても、なんの不思議もないでしょう。
それよりも問題はおそらく、「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので」というところでしょう。
この話が作り物だと考えられてしまう根拠の一つに、天使の存在が伝えられていることが挙げられます。
天使は存在するのでしょうか?
みなさんは天使が存在すると思われますか?
天使を見たことがありますか?
神なんて存在しない、と考える人はきっと、神の使いである天使の存在も信じることがないでしょう。
ですが、神の存在を信じている、と言う人でも、天使の存在を信じますかといわれると、そう簡単ではないように思います。
実は僕もそのような者です。
天使?
どんな服を着ているのですか?
不思議になりませんか?
「神の栄光が回りを照らした」といわれています。どんな現象だったのでしょう?
僕には分かりません。
ですが、僕が天使を見たことがなかったからと言って、それが存在しない、という証拠にはまるでならないでしょう。
白鳥っていますね。
昔、ヨーロッパの人たちは白鳥は必ず白いもので、だから白鳥というのですが、黒い白鳥が存在することを信じられませんでした。
黒い白鳥は存在しますか?
オーストラリアには黒い白鳥、黒鳥が存在します。
黒鳥を実際に見たことのない人は、黒い白鳥が存在する、と言われても、そんなのはできすぎてる作り話、黒で白だなんてできすぎている、なかなか事実だと受け入れることができないでしょう。
また、カモノハシという動物がいます。
カモノハシは哺乳類ですが、くちばしのような器官を持っています。
昔オーストラリアからイギリスへカモノハシの剥製が贈られましたが、イギリスでその剥製を見た人たちは、これは作り物だろうと思ったそうです。
ですが、くちばしをもつ哺乳類、カモノハシは確かに存在します。
実際に目で見てみなければ、よくできすぎている作り話で、事実だと受けいるれるのが難しい場合があります。
天使の存在も同じようです。
いま、僕たちはその存在がとても不思議で、そんな存在は作り話で、とても存在しないだろうとしか考えられませんが、実は本当に存在して、一度でも出会えば、きっと、納得するのだと考えます。
もし皆さんが天使に出会ったら、僕が天使はカモノハシのようだと言っていた事は内緒にしておいてください。
この不思議な存在の主の使い、天使が羊飼いの前に現れました。
羊飼いが主の使いと主の栄光を見て「ひどく恐れた」のは不思議がないでしょう。
一目で天の使いと判るような存在が、「神の栄光」と呼ばれる現象とともに、訪れたのなら、きっと皆さんもひどく恐れるのではないでしょうか?
それは2000年前に起こった特別な出来事だったのです。
なぜ神は特別にこのとき、ベツレヘムの町の外にいた羊飼いに特別に天使を遣わせたのか、聖書は語っていません。
マタイによる福音書には、天使ではなく、星の動きを観察していた博士たちが、やはり生まれたばかりのイエスをたずねています。
羊飼いたちはユダヤ人、そして社会的には貧しく、弱い立場にいる人たちでした。
博士たちはおそらくユダヤ人ではなく、イエスに黄金、乳香、没薬など高価な贈り物を贈れるほど裕福でした。
神はどちらの立場の人たちにも王なる救い主が生まれることを知らせました。
10節「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」」
天使の訪れた目的は、人々の喜びとなる神のメッセージを伝えるためでした。
このメッセージとはなんだったでしょうか?
11節「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
「ダビデの町」とは、それより1000年前に生きたイスラエルの王、ダビデが生まれたベツレヘムのこと、旧約聖書のミカ書5章2節によって、イスラエルの王がいずれ再び、ベツレヘムで生まれることが予言されていました。
羊飼いたちがベツレヘムに行って、「今日、生まれた子供はいませんか?」とたずね回れば、妊娠しておなかの大きかったマリアのところへいずれたどりついたでしょう。
そのとき羊が何をしていたのか、僕は知らないのですが、羊飼いたちが行って、生まれたばかりの赤ちゃんのいる両親を見つけて、しかもその赤ちゃんが飼い葉おけの中に入れられていれば、その子が天使の言った救い主であることが分かります。
天使は言いました、「「あなたがたのために」救い主がお生まれになりました」
これはもちろんユダヤ人である羊飼いをさして言った言葉ですが、しかし、それが天使に対して、人、私たち全体を指したものであることも考えられます。
「私たちのために救い主がお生まれになりました」
「私たちのために」
みなさんには救い主が必要でしょうか?
もし誰かに、「あなたは救い主が必要ですか?」と聞いたら、どんな答えが返ってくるでしょうか?
皆さんのお知り合いに、「あなたは救い主が必要ですか?」と聞いたら、どんな答えが返ってくるでしょうか?
ある人たちは、自分には救い主なんて必要ないと考えます。
「他人任せにしない、他人に頼らない、自立する。」 そういうことが「よい事」であると考える人も多いのではないでしょうか?
自分の力で頑張って努力して、なにごとかを成し遂げることは褒められること、 他人を当てにすること、他人に頼ること、他力本願、それは自分の弱さの現われだと思われるでしょう。
救い主なんて必要としない、と考える人はそもそも教会に来て、僕の話を聞いていたりはしないかも知れません。
ですが、考えてみてください。
もし誰かが「私は自分の力で生きてきたし、これからも自分の力によって生きていく、救い主なんて必要ない」と考えていたとしても、実はもうその人はすでに、多くの人たちによって「救われてきた」のではないでしょうか?
日本やオーストラリアが今も戦争やテロの起こっている国に比べて平和で暮らしていられるのは、そのために努力した人たちによって僕たちが戦争の危険から「救われた」からではないでしょうか?
実は僕たちはもうすでに多くの人たちによって救われています。
もっと突き詰めて言えば、他の人たちだけでなく、この世界を創られた神によって救われています。
地球があって、太陽があって、水と酸素と食べ物があって、生きていられるのは、いくら自分が自分の力で生きてきたと考えていても、実は神によって救われているから、と言えないでしょうか?
自分には救い主なんて必要ない、なんてことは、実はありえない、と僕は考えます。
人には誰でも何事かの「救い主が」必要です。
ですが、ある人はこう考えるかもしれません。
「確かに自分には救い主が必要だけど、自分を救ってくれるような自分に都合のいい救い主は存在しない、そんな救い主に頼ってみても無駄、がっかりするだけ、だから初めから頼らない、必要としない」
歴史を見れば「自分は救い主だ」と自称する、多くの偽救い主が存在しました。
また今日の社会を見ても「私を信じれば救われる」と自称する、多くの偽救い主が存在します。
幸福の科学の大川隆法は最高神エル・カンターレが人となった存在だと自称するそうです。
統一教会のムン・ソンミョン、この9月で亡くなったそうですが、彼は再臨のイエス・キリストを名乗ったそうです。
イエスが人となった神であることを主張したからといって、それが本当である証拠がどこにあるのでしょう?
これだけ多くの偽救い主が存在するのだから、本当の救い主なんて存在しない、そんなの信じない、そう考える方もいるのではないかと思います。
しかし、考えてみてください。
たとえどんなに多くの偽救い主がこの世界に存在し続けるとしても、だからといってそれがこの世界に本当の救い主が一人、存在しないことの根拠にはならないのではないでしょうか?
実にイエスは言っています。
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マルコ13章5節と6節)
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」 (マルコ13章22節)
本当の救い主だけでなく、多くの偽の救い主が存在することをイエスは言っています。
なぜ神が偽の救い主の存在を赦しているのか、分かりません。
神がエデンの園に善悪の知識の木を備えたように、人が神に従うのか、それとも偽の救い主を含めて神以外のなにものかに頼るのか、その選択肢がなければ、私たちが神を選ぶ信仰は表現できないと考えます。
皆さんには本当の救い主が必要でしょうか?
この救い主は何から私たちを救ってくれるのでしょうか?
イエスが何をするために、来られたのか、この箇所からは分かりにくいと思います。
続く、ルカによる福音書の5章の一箇所を読んでみましょう。
イエスが私たちのなにを救おうとしているのか考えてみてください。
5章17節「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
するとそこに、男たちが、中風−中風は脳の出血によってからだが動かなくなる病気です、それ−をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
(なかなか「どけどけどけ」と割り込んでいくことができず、イエスの話をさえぎらずに、静かに瓦をどけて中風の人をつり下ろしたのはなかなか名案ですが)
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子−人の子とはイエスが自分を指して言う言葉です、人の子−が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」
はがした屋根の瓦はきっと中風の人の友人が元通りにして帰ったのだと期待しますが、この箇所から、イエスは私たちの何を救ってくださると考えるでしょうか?
イエスには私たちのこの世界のどのような問題をも、病気を治すことも、必要を満たすことも、時に死んだ人をよみがえらせることさえできる力があることを聖書は伝えています。
ですが、すべての人に、病気が治ること、自分が必要だと思っている必要が満たされること、死なないこと、が必要なのではないと考えます。
使徒パウロにはなにかしらの肉体的な障害があったようです。
パウロは何度もその弱さを克服してくださいと神に祈ったのに、神はその弱さをとりのぞくことをせず、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われました。
その弱さがあることがパウロには必要だったのです。
私たち一人一人、誰もに、本当に必要なことは実はただひとつです。
それは自分の罪が神によって赦されることです。
そのために神は救い主であるイエスをこの世界におくられました。
罪とはなんでしょうか?
罪とは神の定めた生き方を求めず、自分の生き方で生きようとすることです。
パウロは、私たちが生まれながらにして罪びとであると言いました。(エペソ2:3)
罪とは私たちの生まれながらの性質そのものです。
私たちは善い事を行いなさい、悪いことを行ってはいけません、と教えられてきたのに、善い事を行えず、悪いことを行います。
行いだけではありません。
盗みや殺人や姦淫だけが罪なのではありません。
ねたむこと、うらやむこと、同情のないこと、人をさげすむこと、それらも同様に罪なのです。
神の前に、私は罪びとじゃない、と言うことができるでしょうか?
それがなんであるのか、僕にはわかりません、みなさん、一人一人がご存知です。
私たちは神の前に罪を犯しています。
人を憎んでいるのなら、それは神の前に罪を犯しています。
人をうらやんでいるのなら、それは神の前に罪を犯しています。
人をさげすんでいるのなら、それは神の前に罪を犯しています。
この世界は私たち人の罪のために、悪と、憎しみと、苦しみで満ちてしまっています。
私たちが自分の罪を悔い改めないのでいるなら、私たちはいつまでも神との平和を得ることができません。
「神様、私はあなたの前に罪びとです。どうか赦してください。」
そのように言えるでしょうか?
もし言えるのであるなら、神はあなたの罪をすべて赦してくださいます。
なぜなら、あなたの罪を赦すために、神は救い主であるイエスをこの世界におくり、イエスが、あなたの代わりに、あなたの罪のために、十字架で神にすでに罰を受けたからです。
これが二千年前に与えられた救いのメッセージです。
不思議に思いませんか?
このメッセージは私たちが無視しようと思えばできてしまいます。
よくできた作り話だと考えてしまうことができてしまいます。
このメッセージと似たような偽の救いのメッセージが今でも多くの偽救い主によって伝えられています。
ですが、ルカによれば、このメッセージこそが、本当の救いのメッセージ、本当の罪の赦しのメッセージです。
神はこのメッセージによって、私たちが再び、神と平和な関係を築ける道を備えてくださいました。
僕は初めに、この Gonzaga Cameo が2000年間変わらず美しいことに驚いたいた、ということを言いましたが、この Cameo もいつかは朽ちるでしょう。
ですが、天使が2000年前に伝えた、私たちに救い主が生まれたというメッセージはこれまでもそしてこれからもずっと変わらないでしょう。
イエス・キリストがその救い主です。
祈りましょう。
もし、今日、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがって生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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